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第10回 赤ちゃんと子どもの死を考えるセミナー2012 vol6
「崇仁を幸せにするために、自分も幸せになる。」
自分も幸せになるために、2つ意識してきたことがあります。
一つ目は、「感謝心をもつ」ことでした。
先生から次のように教えられました。ご紹介します。
この世で生きていく上で最も大切なのは感謝心である
いくらお金があろうと、感謝することができなければ幸福感は得られない。人は感謝をとうしてしか幸せを感じることができない。感謝は自然にでてこない。さがすものである。
感謝心=「有難い」。有ることが難しい状態それが「有難い」。
「有難い」の反対は「当たり前」。「当たり前」と思っていては、感謝心はでてこない。
この世は無常。常は無い。当たり前なことは、何ひとつない!
当時、私は周りの人に対して、ありがとうとそれなりにきちんと言えている、そして、感謝心ももっていると思っていました。しかし、ある言葉を言われて、その思いに自信がなくなったのです。母に対する感謝がないのに、他人に感謝できるはずがない。
無償の愛をもっとも受けている母に対して感謝できないのに、どうして、他の人に感謝ができようかと。
私は当時、母に対して感謝できていると、心から言える状態ではありませんでした。それどころか、「親とはこうあるべきだ」といった、自分の勝手な理想像や固定観念と比較して、親に対して不平不満を抱いている状態でした。このような心の状態で、母に対して感謝などできるはずがありません。母にできなくても他の人には感謝できる。自分はできていると思っていました。しかし、ある泊まりがけの研修で受けた「内観(ないかん)」により、自分の感謝心の薄さに気づかされたのです。
内観(ないかん)とは、自分の内面を観る手法の一つです。
内観の方法は至って簡単でした。
1,してもらったこと 2,して返したこと 3,迷惑かけたこと
この3つの事柄に対して、対象となる人物を変えながら、年代順に調べていきます。事実を思い出す作業に始まり、そして、その作業に終わる。ただこれを、ひたすら考え、定期的に先生に報告するだけでした。対象となる人物は母からでした。
最初は、なかなか思い出せないのですが、必死に昔のことを思い出していると、どんどん思い出せてくるのです。そこで気がついたのです。なんと母親に「してもらっていること」が多いことか、それに対して、私が母に「して返したこと」の少ないこと。それなのに、自分のことは棚に上げて、よくもまあ、不平不満を言えたものだと。とても厚かましく、礼儀知らずで、なんと自己中心的であったのだろうと気づかされたのです。自分の醜さを、見せつけられました。
そして、先生にこのように言われたのです。内観をすれば自分の醜さを知る。しかし醜さを知って初めて、美しさを知ることができる。親は神様ではない。親だってひとりの未熟な人間である。良いところもあれば、苦手なところもある。そんな人が一生懸命育ててくれた。そのことに対しては感謝しなければならない。
内観を終えて、私の中でなにかがかわりました。この世は無常。常はない。当たり前のことなどなにひとつないと心から思えたのです。そうするといろんなことが本当に有難く感じることができ、「幸せ」もより感じることができるようになったのです。
当たり前と思う心から不平不満がでてきます。そのような心理状態で、息子や妻に接していても幸せを感じてもらうことはできないでしょう。
この時以来、崇仁に関わってくれる方にも、意識して感謝の気持ちを言葉と態度できっちり伝えよう。言葉だけでなく、気持ちを形にしていこうと取り組んできました。
その結果、それまでの人生では体験したことがないくらい、いろんな方とのご縁ができ、そして、暖かい応援を下さる方が増えたように感じます。
もちろん、応援をいただけるような関係、楽しみながらおつきあいができる関係を築こうと、最も努力していたのは他でもない妻であることは申し添えてておきます。
自分も幸せになるために意識したこと」もうひとつは・・・
「人の為とかいて偽(いつわ)りと読む」「人の為にすることは偽りなのでしょうか?」
このような問いかけで始まった研修で、強く私の心に残っている内容です。
結論を先に言うと、人の為にすることは、「偽り」(いつわり)つまり「うそ」ということになると教えられました。
家族の為 子どもの為 妻の為 そうしようと最終的に決めたのは自分である。
また、そうすることによって、人に「良く思われたい」「認められたい」「誉められたい」という思いが心の中にあることを知っておかないといけない。
だから、「人の為にすることであっても、自分の為にしていることになる」
自分の為にしていることなので、なにかあっても、他人の責任にしない。自分の中に原因を探す。他人の責任にしていては、他人次第で自分の幸不幸(こうふこう)が決まることになる。自分に原因を探し始めると、自分の行動次第で幸せに近づくことができるようになる。
これを意識するようになり、愚痴や不平不満を抱かなくなりました。
私が育児を手伝って、もし、「あれもしてあげた」、「これもしてあげた」と、口に出していたら、きっと妻も気分を悪くしたことでしょう。自分もまた、せっかくしたことで腹を立てられ「してあげたのに」と嫌な気持ちになったでしょう。幸せな家庭とはほど遠いものになっていたかもしれません。
この考え方は、自分自身の心の平穏を保ち、そして、幸せになる為にも、とても役立っています。
この原稿を妻に読んでもらったとき、当時を振り返って「だから、一切恩着せがましく感じなかった。ありがたかった。」と言ってくれました。