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第10回 赤ちゃんと子どもの死を考えるセミナー2012 vol3
「退院させるかどうか・・・」
NICUでは私が抱けるのは、休日の1時間程でした。平日は妻が撮影したビデオ映像を見て、息子の様子を、聞けるぐらいで、頭では自分の子どもとわかっているのですが、抱ける時間が、あまりにも少ない為か、感情が伴わず、父という実感がもてずにいました。
NICUでの生活も3ヶ月ほどたったある日、妻が主治医から提案をうけました。今後チャンスがあれば、退院して自宅で生活してみてはどうですか?という内容でした。
当時、崇仁は肺炎を繰り返しており、いつ亡くなってもおかしくない状態で、このまま入院を続けていても、病気がなおるわけではありません。面会時間も限られており、妻でさえ、抱いてあげられるのは、日中の1時間程度でした。
かりに、退院させた場合、大きく2つのことが考えられました。ひとつは、設備や環境が整ったNICU(新生児集中治療室)と違って、自宅で育てた場合、さらに短い人生となってしまうかもしれない。でも、その分、はるかに、抱ける時間が増えて、愛情をより多く注ぐことができ、崇仁がより幸せを感じてくれるのではないか?命の長さだけでなく、質や密度も大切ではないかと考えました。
もう一つは、可能性は低いかも知れないが、環境が変わったことにより、逆に長生きするかもしれないと考えました。退院することによって、気分に変化が訪れ、免疫力が高まり生命力が上がることを期待しました。
妻は、退院させたいと思っていましたが、その反面、果たして、本当に自宅で、育てることが可能だろうかとの不安を抱いていました。
いずれにしても、自宅で生活した方が、ふれあえる時間が長くなる、それならば退院させる方がよいのではないかと思いました。
しかし、ここで問題となったのは、自宅で生活したほうが良いと、頭では解っていても、もしかしたら、自宅ですぐに死んでしまうかも知れないという恐怖と、どう向き合うかでした。
実際、死を目の前にすると、自分なりの死生観というものがないと、思い切った決断や、一歩前に踏み出す勇気が生まれにくいのではないかと感じました。
私が、この死の恐怖に打ち勝って、退院させようと、決断できたのは、飯田さんの著書「生きがいの創造」に書かれている情報や思考法により、自分なりの死生観が持てたからです。
著書内に次のような一文があります。
「死が生の終着点で何も残らないと考えると、どうせ、余命わずかなのだからとか、これ以上、頑張っても仕方がないと思ってしまい、充実した人生は歩めないと思います。
しかし、死は終わりでないと認識できたなら、死という暗やみでなく、次につながる、永遠に続く自分自身の成長のステップとして、考えられ、今の人生をどのように生きるべきか、周りの人にどのように接していけばよいかと真剣に考えることができ、勇気と希望をもって、人生を歩んでいけるのではないかと思いました」
これは飯田さんの講義を受けた学生さんの感想ですが、私も同じような気持ちになりました。
もし興味があるようでしたら、一度、著書を読んでみて下さい。
「退院へ向けて」
何かあったら、すぐに病院へ駆けつけられるよう、病院近くへ引っ越ししました。
吸引、注入の方法からモニターの操作方法、そして、何かあったときの対処方法まで、直接看護師さんから指導をうけました。
退院する日は、準備を始めて、1ヶ月後、生後約4ヶ月が経っていました。肺炎を繰り返していましたので、少し症状が良くなった時を見計らって、主治医からGOサインが出たのです。
退院当日、支度を済ませNICUの出入口に崇仁を迎えに行くと、周りには、ドクター・看護婦長さんを始めたくさんの看護士さんの姿がありました。思わぬ見送りに大変感激致しました。
先日、お世話になった看護師さんから、当時のエピソードをお聞ききする機会がありました。退院する崇仁の状態をみて、「この状態で本当に帰るの?」と非常に心配してくれていたそうです。
私は、当時を振り返り、主治医の先生にとても感謝しています。このような状態であっても、チャンスは今しかないとリスクを覚悟の上で、命の長さだけを見ず、親と子が触れ合える時間の大切さまで考え、退院させるという提案をくれたからです。